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ミュージアムマップ
05三本木エリア
丘陵地を33kmもの水路が続く荒川堰用水路
鳴瀬川が貫くエリアであるが水の確保に苦労し、水路の開削やため池など、水利技術を最大限活用して水田を築いてきました。国道4号線、東北新幹線、東北自動車道が縦断し、アクセスは良好。春は菜の花、夏はひまわりが咲き誇る「ひまわりの丘」は多くの方を魅了しています。
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1600年代に作られ、現在もつかわれる山腹の
大崎耕土が、現在のように水路が網目のように広がり、安定して水田用の水を確保することができるようになった背景には、江戸時代に急速に進めた
三本木地域は、丘陵地帯であり川の流れる速度が速くて、水を引いてくることが難しく、また、ため池の取水も背後の山林が広くないため、充分な水の確保には困難を極めた地域でした。
そこで、1646年から1649年にかけてつくられたのが「荒川堰」です。
全長33km、そのうち、丘陵の山腹の潜穴が三本木地域で12か所、色麻町1か所、約1,700mある大工事でした。水路の勾配を決める作業は特につらい作業であったといわれ、篠笹が生い茂る地帯と原生林の山を広く刈り取り、自然に流れるよう、用水の路線を選ぶ際には、暗い夜に火をともして遠方から眺め、伝令を走らせながら決めていくという作業であったといわれています。掘削の作業も木製のスコップを使い、トンネルの掘削も入口と出口を決めた上で、両側から掘り進め、水が流れるかどうか誰しもが不安の中で、ついに流れたときには、皆が歓喜したと伝えられています。
荒川堰は、近年、改修工事が進められ、当時の素掘りから現在はコンクリートに見た目は変化しています。新たにため池をつくるなど、細やかに水を確保するための改善も加えられています。しかしながら、現在も山腹部では、流れるルートはほぼ同じ形で残り、つくられてから370年を経た今でも周辺の水田を潤し、ため池の水の確保に活用されています。
なお、1858年(安政5年)に作成された幅50cm、長さ18mの荒川堰絵図が
大崎耕土の景観をつくる居久根
屋敷を取り囲んで、洪水や冬の北西風から守る屋敷林「居久根」が、三本木地域には多く残されています。「荒川堰絵図」では、ほとんどの農家屋敷は居久根に囲まれるように描かれています。仙台藩ではこの居久根の維持を重要視しており、伊達政宗公は、河川氾濫原の水田利用を行う際、農家の洪水対策として、居久根の伐採を藩の許可制とし、伐採する木の太さに応じた本数の苗木を新たに植える決まりを設けました。また、植栽用の苗木を育てるために、藩内数十ヶ所に苗床を持っていたといわれています。近代に入り、藩の保護規制はなくなりましたが、居久根が消えることはなく、維持管理の難しさからその数は減少していますが、現在も大崎耕土全体で2万4千の居久根が残り、その有用性を理解している人々によって保全されています。