フィールド
ミュージアムマップ
06松山エリア
伝統的な酒づくりの文化を醸し出す歴史の町
江戸時代に、仙台藩の新田開発の牽引役を担った伊達家重臣茂庭家の城下町として栄えた土地。鳴瀬川本流に近く野谷地が多い不毛の地を耕した地域の人々の功績は大きい。当時の姿を今に伝える町並みや、伝統文化、酒造りの文化などが残されています。
Pick UP!
茂庭氏が整備した城下町松山
松山地域は、かつては伊達家重臣茂庭家の居城、
室町時代、遠藤氏により千石城が築かれ、江戸期に石川氏、古内氏の支配を経て、慶長8年(1603)に茂庭氏が1万5千石で入ります。茂庭氏は、本格的に城下町の整備を行い、城の規模を縮小し、現在の松山高校付近には、千石城の下屋敷として上野館を築き政務などを行いました。
城下町では特に醸造業が発展し、現在も、かつての酒蔵や醤油蔵の建物が残ります。県内の4つの蔵元が合併してできた「一ノ蔵」、以前酒蔵があった場所には、「酒ミュージアム」が建ち、当時の醸造業の様子を資料展示しています。
また、町の一角には県指定無形文化財に指定されている九代目刀匠
茂庭氏による新田開発
松山地域が城下町として栄えた背景には、新田開発による成果があります。伊達政宗公が仙台に築城を始めたころから、藩では各領主に新田開発を命じ、各地で開拓を始めました。当時、江戸が急激な人口増加で米不足になり、関東だけでは供給ができない状況に目を付けた政宗公が、仙台領の米を江戸に積み出し、藩の財政基盤を堅固なものにしていきます。北上川、迫川、江合川の合流工事により、水運、排水、灌漑の機能が向上したことで、これが実現しました。
茂庭氏も松山の地へ入った後、新田開発により石高を倍以上に増加させました。1603年からの開発で、約200haを拓き、その収穫量は212貫文(212石、おおよそ120トン)に達したと記録に残っています。これらの開発は1646年から1649年にかけて開削された荒川堰により、松山地域へ水がもたらされたことにより実現したといわれています。
伊達政宗を言いくるめた重臣
伊達政宗公の五男、卯松丸の元服式で茂庭家十四代綱元が後見人を務めました。式は綱元宅で盛大に行われましたが、グルメとして名高い政宗は質素な料理に不満を覚え、家臣に不満をこぼしました。それを聞いた綱元は政宗に「戦の時、早く天下を太平にして、いものこ汁に鰯の焼魚で大豆飯を食べたいとおっしゃったはず。太平の世になった今、ご希望のものをお出ししたまでのこと。」と言いくるめたと伝えられています。その時の料理をイメージして、松山の地場産品と発酵食品を活かして作られた料理が「茂庭御膳」です。それぞれのお店の持ち味と地元の食材で季節に応じて変わる「茂庭御膳」を是非ご賞味ください。
詳しくは大崎市公式HP
https://www.city.osaki.miyagi.jp/index.cfm/24,1053,105,222,html
酒蔵との環境保全型農業の取り組み
松山地域にある酒蔵「一ノ蔵」では、環境保全米であるふゆみずたんぼ米や、酒造好適米「蔵の華」によって仕込みを行っています。また、松山には酒米研究会という会があります。会発足のきっかけは平成5年におきた大冷害。「このままでは自分たちの農業が行き詰まるのではという焦りがあり、皆で頭を悩ませていました。そんなとき、一ノ蔵との酒米の契約栽培、という案が出てきたのです。」と振り返る。平成13年には無農薬・無化学肥料による専用酒米の栽培を実現。8.6haで始まった作付面積は約9倍の73.5haにまで拡大しています。